ファジアーノを愛するすべての大人へ

ファジアーノはご存知のように、「子どもたちに夢を!」というスローガンを掲げています。
最近ふと思ったのですが、この「夢」という言葉、もしかして大人の方が敏感に感じているのではないでしょうか。
大人になる過程の中で、人は夢と現実の狭間に立ち、そのどちらを選ぶか常に選択を続けていきます。
そうやって、人生の中でいくつかの夢を諦めてきた人もいます。
そのたびに、それを環境や、時代や、他人のせいにしたり、諦める理由を探して言い訳をしたり、卑屈になったりしてきました。
見る夢があるならまだ良い方で、自分なりの夢を見つけることが出来ず、夢という言葉を使う人を見て、笑ったり、皮肉を言ったりして、自分の方がまともな人生を歩んでいると思おうとしてきました。
夢見る人のことを、少しうらやましく思いながら。
大人になるということは、多かれ少なかれ現実を見て生きていくことです。
だから、夢を見る人のことを「少年のこころを持っている人」と言ったり、「若気の至り」「身の程知らず」と言ったりするのだと思います。
ファジアーノというクラブは、恥ずかしげもなく声高に「夢」という言葉を使ったクラブです。
現実を見る大人の中には、ファジアーノの夢に対して「岡山にJは無理」「県民性が…」「出る杭は打たれる」などと言う人もいました。
しかし、ファジアーノは決して諦めず、自分の信じる理念を追いかけました。
すると、ほんの少しずつですが、その理念に賛同する人がだんだん増えてきたのです。
ひやかし半分でゲームを見に来た人は、ファジアーノの試合を見て、これは夢物語でなく現実の物語だということに気づきました。
ところで夢というのは、まわりから見れば夢ですが、当の本人からすれば、現在進行形でひたむきに進んでいっている現実です。
彼らは妄想を追いかけているのではなく、理想を追いかけているのであって、「実現できる」と思っているからこそ、その道を歩んでいるのです。
しかし、実際には「現実の壁」というものもありました。
夢だけ食って生きていくわけにはいかないこともあります。
昨シーズンの終わり、チームをプロ化するために何人かの選手が退団せざるを得なくなりました。
私も詳しくは知りませんが、経済的な事情や、家庭の事情、プレイヤーとしての年齢などがあったのでしょう。
残念ながら彼らは、現実の前に夢を諦めなければならなくなりました。
いや、諦めたように見えました。
元選手の中には、現在、指導者としての道を歩んでいる者がいます。
母校でサッカーのコーチをしたり、スクールで子どもたちにサッカーの楽しさを教えています。
「自分が育てた選手を、自分がいたファジアーノに入団させたい」と彼は言います。
サッカーが好きで好きでたまらない元選手は、県リーグのチームに所属し、再び中国リーグを目指しています。第3キーパーで出場機会も少なかった男は、自分のサインの横に「生涯蹴球」と書きました。
審判の資格を取得し、岡山サッカーのためにその活躍の場を移している元選手もいます。彼はサインの横に「岡山のために」と書きました。
彼らはちっとも夢を諦めてなんかいなかったのです。
夢のカタチが少し変わっただけなのです。
「それぞれのファジアーノがある」というのは、大げさに言えば『生きる』ということです。
ファジアーノをとりまく大勢の人、あなたも含めて誰もが皆、いくつもの問題を抱えながらも、自分の足元にある道を精一杯歩いて行っています。
ファジアーノから学ぶことは、子どもだけでなく、大人にもたくさんあります。
「大人たちにも夢を!」と言う人は、ファジアーノを自分の人生とだぶらせて見ているような気がします。
ファジアーノは、日々の瞬間を輝かせています。
さて、私はどうだろう。

2007年11月13日 22:57 » ブログ